旧山田寺の仏頭(国宝)の話(その一)
白鳳時代の最高傑作の一つ 旧山田寺の仏頭は、山田寺の建立を始めた蘇我倉山石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)と同様に数奇な運命を辿ります。
山田寺は685年3月25日の蘇我倉山石川麻呂の祥月命日に仏顔を点じました。
石川麻呂の自害後、36年を経て天武天皇により建立されました。
この仏頭は、山田寺建立より前の678年12月に丈六の仏像(薬師三尊)として鋳造されました。
飛鳥時代の止利派の様式(北魏の影響)が衰退した後、隋から初唐の仏像様式を色濃く表した童顔形の仏像の代表です。
火災で、かなり破損を被り、顔の左半面特に耳の辺りが凹む痛ましい状況を呈していますが、右半面はほぼ現容を留めています。
鋳造法としては、
法隆寺金堂釈迦三尊以来の蝋型鋳造で、型持ちは方形の土型持ちと長い笄(こうがい・銅釘)を併用しています。
頭髪部には、ならし鏨(たがね)による布目状の痕跡もみられ、当初は別鋳のラホツを漆等で塗りつけていたとも考えられます。
金銅仏であったことが、右頬等の鍍金の痕跡から分かります。
因みに、薬師寺・薬師三尊像(国宝)も、ほぼ同時代で688年頃には完成していたとみられています。(697年に製作されたという説もあります)
さて、薬師三尊像(仏頭)を本尊とする山田寺は、1081年(平安時代)に入り、天台宗に属するようになると、南都・興福寺(藤原氏の氏寺)は、それに怒り、多武峰の末寺となっていた山田寺も襲撃しました。
この出来事以降、両社の抗争は激化しました。
このさなかの1180年、興福寺は平重衡(清盛の五男)の焼き討ちにあって、伽藍の殆どが焼失してしまいます。
1187年、興福寺再建されますが、東金堂の本尊の制作が進まない為に、当時荒廃していた山田寺の本尊(仏頭)に目を付け、興福寺の僧が、製作当時から傑作と評判の高かった本尊を担ぎ出しました。(?)
こうして、興福寺に迎えられたらしいのですが、再び災難が降りかかります。
1411年、再建なった興福寺の東金堂は、落雷による火災に会い、本尊は、東金堂と共に胴体も焼け落ちてしまいました。
残された頭部は、1415年に再興された東金堂本尊須弥座の中に納められたまま、次第に忘れさられていきました。
1937年(昭和12年)興福寺の東金堂の解体修復中に、須弥座(台座)の中より発見され,直ちに、国宝となり、ついに、興福寺国宝館に安住の地をえました。
白鳳時代の金銅仏の最高傑作の一つ、
国宝・仏頭(旧山田寺講堂本尊)ブロンズ 鍍金 像高98㎝ 興福寺国宝館蔵
参考文献 日本仏像史 美術出版社 監修 水野敬三郎
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